その日、88歳のFさんの血圧は160と86、脈拍は1分間に72で不整はありませんでした。聴診器を耳からはずしてかばんの中にしまおうとする私に、眼を細めて少しうつむきかげんにFさんは問いかけてきました。「あとどれくらい?どれくらいで昇天できるのかしら?」と・・・。夫の死後、大きな家で一人暮らしをしているFさんは、足腰が弱り、買物も思うようにいけなくなったので、訪問介護を週1回利用しています。
人には4つの痛みがあります。ひとつめは身体的な痛み。病による痛みや身体の機能の低下などから障害をもったり、不快感を伴ったりするものです。ふたつめは心理的な痛みで、不安や孤独感、恐怖など、心の在りようから発生するものです。みっつめは、社会的な痛みです。それは経済的なことからくるものであったり、差別を受けたり仕事の中でのストレスからきたり、また、だれにも相手にされなかったりするときにくるものです。そして、もうひとつは、わたしたちのもっとも深い痛み―霊的なスピリチュアルな痛みです。自分はなぜ生きているのだろう、生きていていいのだろうかという魂の痛み―。人生の意味を問うても苦しみのやり場さえ見つからず、死生観に対して感じる痛みです。さて、わたしたちはこれらの痛みにどう向き合っていけば良いのでしょうか。その前に、「痛み」に4つのかたちがあることを解ろうとしているでしょうか。
これらの痛みは、重なり合い絡み合っているものです。苦しんでいる人を前にするとき、身体的、社会的な痛みを和らげるのにはいくつか方法があるような気がします。しかし、心や魂の痛みは癒すことが難しいものだと思えます。なぜなら、それらの痛みには、わたしたち自身のスピリチュアルなものをもちいて静かに対面するしか手立てがないからです。
離れて暮らすFさんの一人娘は、高齢の母を案じてたびたび電話を掛けたり、また、食べ物など不自由であろうと送り届けたりしています。「一緒に住もう」と、Fさんに何度も勧めてもいます。しかし、Fさんは夫と暮らした場所から離れようとしません。不自由な身体ゆえに、嫁に出した娘に気を遣わせることを思うと、首を縦には振れないのです。
「早く死にたい」と言うFさん。「どうして?」と私が尋ねると、私の眼をのぞきこむように「生きていたって仕方ないじゃないの」とつぶやきます。その日も、小さな白い手をつつむと、Fさんは力ない手私の手を包み返してきました。
■神谷美恵子 [かみや みえこ、1914年(大正3年)1月12日-1979年(昭和54年)10月22日]
スイスハンセン病患者の治療に生涯を捧げたことで知られる精神科医。内務省職員である父前田多門とその妻房子の長女として岡山市に生まれ、幼少期を家族と共にスイスで過ごす。語学の素養と文学の愛好に由来する深い教養を身につけており、自身の優しさと相まって接する人々に大きな影響を与えた。「戦時中の東大大学病院精神科を支えた3人の医師の内の一人」、「戦後にGHQと文部省の折衝を一手に引き受けていた」、「美智子皇后の相談役」などの逸話で知られている。著書の『生きがいについて』は出版から40年近くが過ぎた現在でも読者に強い感銘を与えている。他に、『人間をみつめて』、『こころの旅』、『存在の重み』などの著書を残す。
■ハリール・ジブラーン [はりーる・じぶらーん、1883年-1931年]
詩人。レバノンのキリスト教徒(マロン派カトリック)の家庭に生まれる。宗教および哲学に根ざした壮大な宇宙的ヴィジョンを謳う詩を数多く残し、アラビア諸国だけでなく、アメリカ、ヨーロッパ、南米、中国など、世界各国で現在も親しまれている。詩集『予言書』をはじめ、ジブラーンの残した様々な作品は、後のカウンター・カルチャー(※1)やニュー・エイジ・ムーヴメント(※2)にも影響を与えたと考えられている。ジョン・レノンがビートルズの曲 「ジュリア (1968年)」の歌詞に、ジブラーンの作品を引用していることはよく知られている。
神谷美恵子氏が「ハリール・ジブラーン」を知るきっかけとなったのは、当時、皇太子妃だった美智子皇后が、レバノン大統領から贈られたジブラーンの詩集『予言者』を、神谷氏に紹介した事であったという。
※1=カウンター・カルチャー
対抗文化。主流の(体制的な)生き方に対抗する価値観や様式をもった文化。狭義には、1960年代に盛んだったヒッピー文化を指す。
※2=ニュー・エイジ・ムーヴメント
物質的な思考のみでなく、超自然的、精神的な思想をもって既存の文明や科学、政治体制などに批判を加え、それらから解放された、真に自由で人間的な生き方を模索しようとする運動のこと。1960年代のカウンター・カルチャーを直接の起源とする。