本棚の隅に置き忘れていた一冊の本。広げてみると、女山頭火と自身をそう呼び、日々を呟きながら歩いているひとりの詩人がいました。
専門学校で講義を始めた頃、学生の講義を受ける姿勢にはそれぞれ様々な形があるんだな、と感じていました。1年生のクラスでは、最初から最後まで机にうつ伏せになって寝ている人、周りの人と愉快可笑しくつつき合いお喋りをしている人、そうかと思えば、真剣に板書を書き写し頷きながら聞いている人。どれをとっても中途半端ではありません。4年生になると、国家試験の受験を意識しているのか、居眠りも遠慮がちであるか、あるいは諦めびとになっているかです。
1年生から4年生の何年かの過程のなかに、実習という体験学習で、教室から現場へと学びの場が移る時期があります。そういえば私も少し前にいた施設の実習指導の場で、数人の学生を受け入れたのですが、実習の始まる前と最後の振り返りで、学生たちの内面が明らかに成長していたことに驚いたことがあります。
座学として学ぶ理論はおそらくほとんど上澄みのようなもので、むしろ実習の現場で出会う経験こそ彼らがこれから歩む道のエキスとなってくれるでしょう。例えば、実習指導者や介護・福祉の先輩たちの態度や言葉であったり、体温を感じられる対象者との触れ合いなどこれらすべてです。
私は1年生の人たちが、聴いてくれない講義をしていることに倦怠感を感じ、自信を無くして、講師には向いていないのかも…と悩んだことがありました。しかし、学生たちに必要なことは、教科書から学べないものを伝えることかもしれないと思うようになりました。そのために必要なのは、生き方をもった講師の存在なのだろうと最近感じています。それは、彼らがこれから認知症をもつ方や障害者、あるいは児童の傍らに寄り添い、援助をしていくことを業としていくなかで、大切なことを教えるのではなく、何かを感じられる場を提供していくこと。理論や法律は言葉で語るけど、そこから学べることは15%程度の感触だけでよいのではないかと思うと、とても楽になりました。
山頭火は、一草庵で、「所詮は自分を知ることである。私は私の愚を守ろう」と日記に記しました。また「前書きなしの句というものはないといえる。前書きとは、作者の生活である。」と言い、自分の生き方があり、作品ができることを言っています。
看護師という職業を経た山口敦子という詩人が、種田山頭火に惹かれ、自身の生き方を重ねていく作品群。それは、そのまま私に福祉を志し、後へ続く人たちへの言葉を静かに与えてくれます。
詩集 旅路 「山頭火の世界へ」山口敦子
土曜美術社出版より