子供たちのお腹の痛みを治したのは、母の愛という処方箋。手は言葉を超えて、子供たちの柔らかな体に触れている。さてそれでは、福祉という仕事に就きながら人の痛みに寄り添うはずの私はどうだろうか。痛む人を前にして、「対象者のアセスメントを」なんて偉そうに口走っている。
一週間前、法定後見の保佐をさせていたただいている方を訪ねた。老人保健施設に入所中の68歳Yさんだ。10年前に妻や子供たちと離別し、数年後、脳梗塞を起こしたため一人暮らしが困難になった方だ。1ヶ月に1度の訪問時には、車いすに乗り、私が行くと手を差し出してくる。両手で包むと、失語症があり言葉にならない母音を発して、ずっとずっと泣いている。
彼の心の痛みを癒すすべを私は知らない。なにをしてあげればいいのかも。元気な頃、Yさんは地域の子どもたちのために、おもちゃづくりのボランティアをしていた。自宅を事務所にして、「夢ふうせん」と名付けた。病の苦しさ。生きがいを見つけて夢を取り戻したのに。神様はなぜ?別離の苦しさ。いったい何があったのだろう。今、私以外の誰も彼を訪ねる者はいない。大好きな歴史小説の本や、ひざ掛けや、カーディガンや、小さなフクロウの置物や・・・ベッドの周りにあるものは、私が訪ねる度に持っていったものばかり。
この先、保健施設から次の居住地を探し始める。これまで住んでいた公営住宅には帰れないだろうことを、私はYさんに告げなければならない。保佐の仕事は、財産管理のみではなく、身上監護という大切な役割がある。包括的代理権を有する成年後見人とは異なって、保佐人は一定範囲の限定的な職務権限(同意権・取消権・代理権)を持っているに過ぎないという考え方がある。しかし、それだけでは、守っていけないもの。
民法876条は、「保佐人は、保佐の事務を行うにあたっては、被保佐人の意思を尊重し、かつ、その心身の状態および生活の状況に配慮しなければならない」として、法定後見3類型中の保佐に関する身上配慮義務と意思尊重義務を規定している。身上配慮義務の対象は、権限行為の直接の対象のみならず、これに付随する一定範囲内の事実行為にまで深く拡張すべきなのだ。それが、身上監護の基本姿勢なのだと思う。
昨秋、兵庫県社会福祉士会の独立型社会福祉士支援委員会で、メールマガジンを立ち上げることになって、エッセイを書かせていただくことになった。私は、そんなこだわりから、ネーミングは「夢ふうせん」と提案し、発行されることとなった。子どもたちを愛し、自らの苦しみの中から生きようとしたYさんの風船。今、私が受け取り、大空にやさしく高く何度でも打ち上げてみよう。
と「手」の作者は続けている。 もしかしたら、私も少しくらい、痛む心を癒す愛の処方箋を見つけることができるかもしれない。
柳内やすこ詩集『地上の生活』 土曜美術社出版