(1) 高齢者から障害者まで、スタッフ一丸で事業所を運営。
▲自転車で事業所を出発する林さん。
―こちらの事業所は少々変わった運営方法みたいですね。
林さん:ここは働く人が主体となって出資・運営している「協同労働」の事業所です。だから、スタッフ全員が経営に携わることになります。いわゆる「経営者:事業主」と「雇用者」の関係ではないので、一般の事業所に比べると、スタッフの運営に関する意識や思いは強いと思います。
―「協同労働」の事業所を選んだのはなぜですか?
林さん:偶然というか、たまたまというか(笑)。私の場合「協同労働の事業所を探して入社したわけではないんですよ。単純にヘルパー募集のポスターを見かけたので、とりあえず話を聞いてみようと現事業所に飛び込んだのがきっかけです。その後、ここが協同労働という形態で運営されていることを知りました。
―「協同労働」に戸惑いはありませんでしたか?
林さん:最初のうちは戸惑いました。ヘルパーの仕事をしながら運営にも関わらなきゃいけないので、責任重大だなぁーと。もちろん、当時の私には経営に関する知識も経験も全くありませんでしたしね。手探りの日々が続きましたよ。でも、仕事を続けているうちに少しずつ分かってきて、戸惑いも消えました。今は、自分の意見や希望が業務に反映される、やり甲斐のある運営形態だと思っていますよ。
いちヘルパーだった私もサービス提供責任者になり、これまで以上に頑張らなきゃいけない立場になりました。その分大変なことも増えましたが、現場の仕事も経営も面白くなってきたなぁと実感しています。
▲視覚障害がある利用者さんに、届いていた郵便物の説明を行う。
―こちらでは、障害者の介護業務が多いのでしょうか?
林さん:もともと高齢者介護が専門でしたが、少しずつ障害者の介護、特に精神障害者も請け負うようになりました。現在は高齢者と障害者の割合が7対3くらいです。介護が必要なのは、何もお年寄りばかりではありませんしね。
―「高齢者の介護」と「障害者の介護」の違いは何なのでしょうか?
林さん:簡単に言うと、「身体介護」か「生活支援」かの違い、でしょうか。高齢者の介護の場合、身体介護が高い割合を占めます。しかし精神障害者や知的障害者の場合は、障害を除けば体そのものは健康で元気なことが多いので、身体介護はさほど必要ありません。むしろ、掃除や料理などの生活援助が主流になります。視覚障害者の場合は今日のようなガイドヘルパーですね。
―「ガイドヘルパー」とは?
林さん:文化活動や買い物など、社会参加するための移動支援を指します。分かりやすく言うと、障害を持つ利用者さんが、外出時に安全に移動できるよう誘導・サポートする仕事です。
▲前方から自転車がやって来ると、利用者さんを誘導する。
―ガイドヘルパーの業務に当たるとき、気をつけていることは?
林さん:利用者さんの安全を確認し、確保することです。健常者には安全な道であっても、障害者には危険がいっぱいですからね。
―例えば、どういう危険があるのでしょうか?
林さん:歩行者や自転車との衝突です。特に狭い歩道や路地との交差が多い通りは注意が必要です。道路わきのポストや電柱などは定位置に固定されていますが、歩行者や自転車は動く方向が読みにくい。それに、路地から飛び出してくる子ども達の動きに至っては、私たち健常者にすら予測できませんしね。障害者の方々にとっては脅威なのです。
―なるほど。
林さん:それに、前から来る歩行者(健常者)の方が利用者さんの存在に気付いたとしても、どちらに避ければいいのか、どうしたらいいのか迷ってしまって、結果的に衝突してしまうこともあります。でも、それより怖いのは携帯電話を操作している歩行者です。画面に集中しているため、白い杖を持っていても気づいてもらえないんですよね。町の中では、みんなが道路の使用者ですから、譲り合いの気持ちが大切かなって思います。
(2) ボランティアから始めた福祉、その限界に気づいたとき。
▲ランチタイムは、束の間の休息。
―福祉活動は、いつ頃から始めたんですか?
林さん:学生のときです。ボランティア活動をしたことが始まりですね。大学生の私は、中学高校時代に培ったバスケットボールと興味があった福祉に共通するものを探していました。そうしたら、車椅子の方たちで行うバスケットボールがあったんですよ。それを見つけたときには何が何でもやりたかったので、ボランティアでやらせてほしいと飛び込みでお願いに行きました。
飛び込んだ先は、新宿区戸山町にあった国立身体障害リハビリセンター。車椅子バスケットボールの世界を知っていくと、全国大会が行われるほど盛んだったんです。大学時代は、練習の手伝いや女子チームの指導に明け暮れていましたね。
▲お弁当は、前夜のうちに作ってしまうのだとか。
―大学卒業後の就職先は?
林さん:ボランティア活動のことがあったので、就職のとき頭に浮かんだのは、やっぱり福祉でした。リハビリセンターの恩師が紹介してくださった大阪市身体障害者スポーツセンターで2年ほど働きました。
そのあと東京に戻ってきてからも、車椅子バスケットボールの団体や身障スポーツ用具の販売会社など、常に福祉関係の職場でしたね。
だけど、色々あって福祉から離れたくなり、仕事を辞めて旅に出ました。
―それはなぜですか?
林さん:ふと耳にした、ある親の発言に愕然としたんです。もう20年も前のことになります。当時は障害者が一人で外を歩くような世の中ではありませんでした。それでも障害者も外に出ましょうという流れで、外出する姿が少しずつ見られ始めた頃でもありました。
今でも覚えているんですが、私はとある駅の階段を上がっていました。すると脳性麻痺の大人の方が、手すりに掴まってヨタヨタと私の前を歩いていたんです。私は階段を上がりながら、脳性麻痺の方が歩く位置を認識していました。もしその方が転んだら助けようと、ちょっと離れた位置から見守っていたんですね。
そんな私の後ろから、母親と小学生くらいの親子連れが階段を上がってきました。きっと子供さんが何か悪いことをしていたのでしょう。母親は子供を叱りながら、「そういうことをしていると、あんなふうになっちゃうんだよ」と言ったんですよ。
▲林さんが作ったミニチュアハウスの写真は、一緒に働く元カメラマンのスタッフが撮影したという。
その場には私たちしかいなかったので、言葉の矛先は明らかでした。私の位置からだと親子の話し声がちょうど耳に届いたので、脳性麻痺の方の耳に届いてもおかしくなかったでしょうね。
すごく驚きました。あぁ、まだこんな状況なのかなって。世の中の認識を目の当たりにして、すごくショックでした。
―そうだったんですか。
林さん:教育の話になってしまうんですが、もしこういった問題に理解がないまま子供を育てたら、その子は同じ意識を持った大人になるのかなと考えたんですね。
制度が整ってどんなに過ごしやすくなっても、世間の人の認識が変わらない限りどうにもならないと思ったんです。空しいっていうのかな。福祉の限界を見た気がしました。
まだ私も若かったのでしょうけれど、それで福祉の現場を離れたくなったんです。世界を見て視野を広げたくなり、長い期間に渡ってチベットに行きました。
―チベットはどんな旅だったんですか?
林さん:中国からチベットまで3ヶ月ほどかけて回りながら、様々なことを感じるための一人旅でした。初海外ではなかったのですが、人との出会いや見るもの全てが刺激的でした。今は忙しくて無理ですが、まだまだ現役。そのうち、また色んな国を歩きたいです。