■話すだけじゃない。「無言の時間」を共有するのもコミュニケーションです。
▲事業所内には、向井さんが取得した「タクティールケア レベル1」の試験に合格した認定証が飾られている。
―向井さんがこちらの事業所を選んだのはなぜですか?
向井さん:ヘルパーさんをとりまく環境が知りたくて小さな事業所を探していました。求人誌で何件か選んで電話をした事業所に今の社長が在職していたんです。社長の電話対応を聞いて「ここに行ってみたい」という気持ちになりました。
「とりあえず一度話を聞きにいらっしゃいませんか?」という程度のやり取りで特別な話をしたわけではありませんが、気さくな中にもしっかりしたものを持っている印象の話し方だったんです。間の取り方や声から伝わる雰囲気が良かったのかもしれません。それが縁で現在に至っています。
実際にお会いした社長は、思ったとおりの方でした。新しいことにも挑戦していて、「タクティールケア」というジャンルを訪問介護業界で初めて取り入れているんです。
―「タクティールケア」とは?
向井さん:福祉先進国であるスウェーデン発の緩和ケア療法です。マッサージや指圧とは違い、手のひら全体を肌に密着させて「さする」という皮膚を通したコミュニケーション方法なんです。このケアを受けると、痛みの緩和や安心感をもたらすオキシトシンというホルモンが放出されるといわれています。認知症の利用者さんに自分の体を認識していただいたり、がん治療されている方の痛みが緩和されたり、安心や信頼の感情を呼び戻すなど、さまざまな効果が認められているようで、国内でも施設などでは、すでに取り入れられているみたいです。
▲背中のタクティールケアを行っている様子。
―こちらでは、「タクティールケア」のサービスをどのように提供しているのでしょう?
向井さん:この4月から有料サービスとして、在宅でのご提供を正式に開始しました。通常のサービスでは、ご家族と利用者さんの了解を得ればよいのですが、ケアマネージャーさんの確認が必要な場合は、一度試させていただきます。ケアに入るときは会話をしながら自然な流れでスタートし、背中や手足などのケアを含めると1時間ほどのサービスとなりますね。
――サービスを受けられた利用者さんの反応は?
向井さん:「今までにない感覚」と、皆さんにおっしゃっていただいています。気持ち良くなっていただけるようで、「とけるね」とか「熟睡の手前でほわ~んと包まれたような感じになる」などの感想がありました。
また、涙を流されている方もいらっしゃいました。悲しいという感覚ではなく「なぜか出てきた」とおっしゃっていましたが、きっと、ご自身の感情で思うところがあったのかなあと。
不思議なのですがケアを施している私のほうも、疲れるどころか、とろ~んとなるんです。
▲ケアを受けた男性も「気持ち良かったです」と満足そうだった。
―お互いに癒されているんですね。
向井さんそうみたいです。よく思うのは話をするだけじゃなくて、沈黙した時間を共有するのもコミュニケーションのひとつだということです。
子どもの背中やお腹をさするスキンシップは精神的に良い影響が出るといわれていますけど、スキンシップが大事なのは子どもだけではないと思うんです。お年寄りは特に人と触れる機会が減っているんですね。それがケアを通して意識的に触られると、安堵の気持ちが出てきて心を開くことにも繋がるのかなあと。
私たちの事業所だけでも多くの良い反応が見られるので、たくさんの訪問介護の現場で実践していただけたらと思います。
■介護を必要としない、そんな人が一人でも増えるといいですね。
▲入浴介助を行う前に、利用者さんの血圧を測る。
―向井さんがヘルパーとして関わってきたなかで、印象的な利用者さんはいらっしゃいますか?
向井さん:はい。「人に迷惑をかけたくない」という理由で、介護は絶対受けないとしていた女性の利用者さんがいらっしゃいました。
―どうして介護を拒否したのでしょうか?
向井さん:親からの教えを守ろうとしたため、のようでした。その方は、もともと足が変形していらして重度のO脚でした。ある日、自宅アパートの急な階段を降りようとしたときに、目の前をスッと猫が通ったことに驚いた衝撃から、突然足が動かなくなってしまったんですよ。なんとか、はった状態で3階にある自宅アパートに戻ったものの、それっきり。民生委員の方が様子に気づいて、私たちのところに連絡がきたんです。昔の話を聞いていくうちに、子供のころ「人さまに迷惑をかけるくらいなら死んだほうがいい」と親に言われたと話してくださいました。利用者さんご本人も、周りに迷惑をかけられないという考え方でしたね。
▲「熱すぎると飲めないので」と食卓に並べるタイミングを考えて熱を冷ます心配りも忘れない。
―なんだか悲しい話ですね。
向井さん:ええ。私は「お世話になってもいいのよ。きちんとお金も払ってきているのだから、これは権利ですよ」と話しました。それから、少しずつヘルパーの存在を受け入れてもらえるようになった気がします。
ただ、この方は栄養が偏りがちな市販のお弁当ばかりを食べている方で、野菜もほとんど食べず食生活が乱れていたんです。そこで、少しずつでも苦手な野菜を克服していただくために担当ヘルパー同士で綿密な打合せを重ねました。「この値段だったら●●のスーパーで買えますよ」とお伝えしたり、「前に●●を食べたら、お肌がツルツルになったんですよ」などと、食べたいと思っていただけるように、何度もお話をしていきました。すると徐々にご本人の気持ちが動き出して、ついには食べていただけたんです。ひとつ食べられるようになると、次から次に嫌いなものを克服していかれたので、本当に嬉しかったですね。そうして食べ物を変えると、以前から持っていらした糖尿や血液の数値も落ち着くようになったため、食生活の大切さをつくづく感じましたね。でも、この方の奇跡はこれだけではないんですよ。
―ほかにどんなことが?
向井さん:食べ物を克服して体調が良くなられると、今度は「歩けるようになりたい」とおっしゃられたんです。
▲介助をおこなっている間の向井さんの表情には笑顔がたえない。
―すごく前向きになられましたね。
向井さん:そうなんですよ。「ひざの手術を受けたい」と、自分からおっしゃったんです。足をまっすぐにして歩きたいと。85歳の利用者さんが「今しかないわ」と口にしたのを聞いたときには、私のほうが驚きました。足を隠すために足首までのロングスカートばかりを履いていたのが、手術やリハビリの努力などの末に、ひざ丈のタイトスカートを履かれるようになったんですから。ヘルパーとして関わらなくなった今でもときどき連絡をもらうのですが、「第二の人生で素敵な人をみつけてくださいね」と声をかけると「わかった」と前向きな言葉を聞かせていただけて、このうえなく嬉しい気持ちになります。
―つまり、この利用者さんとは、前向きな形で関わりがなくcなったんですね。とても珍しいケースではありませんか?
向井さん:はい。なかなかないパターンですよね。ヘルパーで入った当初より生きようとするエネルギーがずっと増えたわけですから。なんとか元気になっていただきたいとは思っても、多くの場合は、どうしても最後のときまでを維持する関わり合いになってしまうだけに、こういった明るいケースは私たちにとっても励みになります。前向きな形で私たちを必要としない、そんな方をお一人でも多く、と希望を抱いて関わらせていただきたいです。